仏教のお話

 

 お釈迦さま は「この世は苦しみの世界である」という発想から修行を積まれ、絶対安穏の理想の境地、つまり「悟り」を開かれました。
 凡夫である私たちは、生老病死という苦が身近に迫るまで、この世への未練はなかなか絶ち難く、絶対安穏の理想の境地に入ることができません。苦から逃れなくなると、私たちは死を安易に望んだり、また死の世界を不安に思ったりします。自分の力で死を乗り越え、絶対安穏の理想の境地へ達することはなかなかできるものではありません。そこで、お釈迦さまは絶対安穏の境地へ私たちを渡してくださる方法として、阿弥陀仏をお説きになりました。

 
 弥陀仏の「アミダ」とは、インドの言葉で「量ることのできない」という意味です。
中国では、「無量寿」または「無量光」と訳されています。
無量寿とは、私たちが救われることが永遠であること、阿弥陀仏の慈悲が量り知れないほど深いことを表しています。
無量光には、一人の人間も洩らさないという心が含まれ、この無量の光が阿弥陀仏の智恵を象徴しています。阿弥陀仏の功徳が広大無辺であることは、光明で表されています。
 
 量寿経に阿弥陀仏は、遠い昔、世自在王仏の浄土において発心された法蔵菩薩で、衆生を救済するために四十八の本願を立て、大変に長い期間の修行を経て、これらの本願をことごとく成し遂げられた仏であると説かれています。阿弥陀仏の本願とは、誓願のことです。仏の正覚(完全なる悟り)を開く上で、「必ず仏道を修めよう、また必ず他の人々を救おう」と、阿弥陀仏が願い誓われたことです。そして、その一つ一つに「この願を果たすことができず、衆生を往生させることができないようならば、私は決して仏とならない」と誓われています。
 私たちを往生させるべく大誓願をお立てになり、それを成し遂げられた阿弥陀仏は、その大願業力をもって衆生の往生を一身に引き受けてくださっています。阿弥陀仏の本願は、ご自身が「超世の願」と称しておられように、自らの深い大慈悲と叡智とから生まれた衆生救済の悲願であって、本来なら私たちの側で積むべき修行までも、肩代わりして果たしてくださっているのです。
 無量寿経には阿弥陀仏の大願成就の功徳を今生の人々に説き、極楽の聖衆がその人たちの浄土往生を果たすべく、極楽と娑婆の間を絶えず往来していると説かれています。阿弥陀仏は私たち人間の思いではとうていはかり知ることのできない、幽遠なる境地の仏です。しかし阿弥陀仏はその本願に報いるため、進んで私たちの前に現れてくださるのです。これを来迎といいます。 
 の私の生活が、すでに阿弥陀仏の大慈悲に包まれていることに目覚め、往生が決定した喜びの境地、これを安心といいます。喜ぶということは、阿弥陀仏の成仏の意味を素直に心にいただき、私たちの身を全部、阿弥陀仏におまかせするということです。

 然上人 は阿弥陀仏の御名、「南無阿弥陀仏」を称えることを勧められました。念仏することにより、日常生活のなかで、往生する喜び・救われているという安堵感をもって、浄土の楽しさを心に持つことができます。念仏の安心を得た人は、この世にいながら心は浄土に住まいする思いを得て、仏の道を歩むことが自然と喜ばれているのです。
 安心が得られたからには、歓喜と報恩の心が自然に湧き起こって日々の生活に念仏が喜ばれ、口に称えるばかりでなく、動作の中に、言葉の中に、心の中に念仏が実践されて、生活全体が念仏の現れとなります。
 仏のみ教えを受けた私たちは、暮らしの中に仏の教えを生かし、それによって人々と和合し、社会の浄化につとめていきましょう。