沿革

天然寺は愛知県の北部、江南市にあります。北には木曽川が流れ、西には伊吹山を、北東には御嶽山を望む尾張平野に位置します。 寛永20年(西暦1643年)、曼陀羅寺第30世であった洞空教観大和尚が小牧代官・山澄淡路守英龍よりこの地の寄進を受け、世の中が永久に泰平に続くことが達成するようにと祈願し、天然寺を開基しました。山号を「龍興山」、院号を「開運院」と号します。 天然寺は浄土宗西山禅林寺派で、ご本尊・阿弥陀如来をおまつりし、また信濃善光寺如来分身を安置し、念仏の道場として今日に至っています。

 

山門

 

本堂

 

鐘楼堂


歴代住職

 代  - 住 職    晋 山         退 山
開 山 - 洞空教観 - 寛永20年(1643) - 慶安2年遷化 (1649)
2 世 - 日空教山 - 慶安2年 (1649) - 貞亮3年遷化 (1686)
3 世 - 観空良元 - 貞亮3年 (1686) - 元禄16年遷化(1703)
4 世 - 善應存識 - 寶永3年 (1706) - 寶永5年退山 (1708)
5 世 - 春翁玄耶 - 寶永5年 (1708) - 寶永7年退山 (1710)
6 世 - 知空円識 - 正徳2年 (1712) - 正徳4年遷化 (1714)
7 世 - 本空徹元 - 享保10年(1725) - 享保19年退山(1734)
8 世 - 潮空胡海 - 享保19年(1734) - 寛保3年退山 (1743)
9 世 - 円真恵秀 - 寛保3年 (1743) - 延享2年退山 (1745)
10世 - 大空珉山 - 寶暦8年 (1758) - 明和元年退山 (1764)
11世 - 実空祖真 - 明和5年 (1768) - 安永5年退山 (1776)
12世 - 忍空聞龍 - 安永6年 (1777) - 文化8年遷化 (1811)
13世 - 聴空諦門 - 文化8年 (1811) - 文政9年遷化 (1826)
14世 - 定空忍戒 - 文政10年(1827) - 天保11年退山(1840)
15世 - 戒空義住 - 天保11年(1840) - 慶応3年遷化 (1868)
16世 - 三空賢住 - 文久2年 (1862) - 慶応3年遷化 (1868)
17世 - 本空誓住 - 明治元年 (1868) - 明治2年退山 (1869)
18世 - 照空恵範 - 明治2年 (1869) - 明治43年退山(1910)
19世 - 亮空義範 - 明治43年(1910) - 大正8年遷化 (1919)
20世 - 舜空尭範 - 大正8年 (1919) - 昭和14年転住(1939)
21世 - 唯空玄識 - 昭和14年(1939) - 昭和25年転住(1950)
22世 - 徹空舜雄 - 昭和25年(1950) - 平成14年退山(2002)
23世 - 圓空雄諦 - 平成14年(2002)


天然寺開山 洞空教観大和尚

第12世忍空聞龍 記
そもそも天然寺の由来を調べてみると、当寺の開山・洞空教観大和尚は第百九代・明正天皇の御代、寛永12年に日輪山曼陀羅寺三十世を相続されました。修行と学問をされ、徳風が有り、老若男女の尊崇は篤く、日夜、多くの人たちが教観上人の論談を聴聞しておりました。帰依された僧侶や俗人は多く、山澄殿も教観和尚に深く帰依され、また親しく交際していたと伝え聞きています。
寛永16年12月のこと、山澄殿は教観和尚の御方丈の部屋を訪ねられ、一寺院を建立する志があることを伝えられました。山澄殿は教観上人に話されました。「上奈良村はその昔、観音寺がありました。永禄2年の浮野合戦の折に堂宇が焼失してしまいました。この地に一宇建立するにあたり、私の治める知行地に塚がありますが、その地は六反ほどの広さです。お気に召されればそこに建立して下さい。」
教観上人は大いに感じ入り、寛永19年、その地の竹林を開いて、同年9月より土地をならし石築をしました。寛永20年8月には天然寺を建立して、教観和尚は入寺されました。山澄殿は「この地に寺院が建立していただいて、仕合わせ至極に存じます。」と言われたことを伝え聞いています。
龍興山開運院天然寺   開山 洞空教観大和尚
                寛永20年入寺  慶安2年11月3日帰寂